Tea Story 読めばきっと好きになる紅茶のお話

2015.04.23

紅茶の用語 Vol.2

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前回ご案内より少々遅れましたが、「紅茶の用語」2回目です。

3. 紅茶の水色(すいしょく)等に関するもの

「水色」とは、「紅茶抽出液の色」のことです。

水色は紅茶の品質の中でも重要な条件の一つです。濁った紅茶はいかにもまずそうで、何か古い紅茶と一見してわかります。「味」と違って、目で見てはっきりわかるものですから、余計に大切な訳です。

・明るい Bright:日本語の「サエ」が一番適当な言葉です。澄んで、明るい水色です。紅茶を抽出したらまず一番に見ましょう。
・生き生きした Brisk:明るさの中に、いかにも生き生きした様子が見られる水色のことです。セイロンのDimbula 紅茶などに良く使用されます。
・濁った、澄んだ Dull, Clean:Dull(ダル)は日本語の「ダルい」と同じ語感です。はっきりしない、だらだらした様子で、紅茶も同じです。
・ゴールデンリング Golden Ring:ティー・カップの内縁に見られるオレンジ色の環。コロナCoronaとも言います。(太陽の周りに見えるコロナです)良質茶の証です。
・ツヤの無い Pale:Pale Color(くすんだ色)などと使います。
・クリームダウン Cream Down:冷めた紅茶が白く濁る現象。高タンニン茶に多い現象。温めると元に戻ります。高地産のセイロン・ウバなどによく出ます。
・抽出液 Liquor:Good Liqourなどと言います。紅茶液全体を指して使用します。
・濃い、薄い Thick, Weak:そのままで使用。

4. 紅茶の器具に関するもの

・茶漉し Strainer:Tea Strainer には様々な形がある。一番安くてよいのは、極普通の茶漉しです。(網目が2重になっているとなお良いでしょう)
・ポット・カバー Tea Cosy:ティー・ポットを保温するためのもの。同じようにティー・マットもあると良い。
・ミルク差し Milk Pitcher:Milk Jug とも言います。

そのほかTea Potは当たり前ですが、ヤカン(Tea Kettle ) 、Tea Cup と受け皿(ソーサー)、Tea Spoon、砂時計など。特別に製作した紅茶を軽量するメジャー・スプーンもあります。

あまりにも奇をてらったものよりオーソドックスなものが一番ですよ!

5. 紅茶の歴史、分化に関する若干の用語

ここでは主に歴史上で有名な史実を取り上げます。今の紅茶の消費文化はイギリスで完成されたといって過言ではありません。用語から紅茶の歴史、文化を垣間見て下さい。

・ボストン茶会事件:英国の植民地に対する関税操作、在庫押し付けでアメリカの不満(当時Boston Tea Party アメリカは紅茶の大量消費国であった。)が紅茶貿易商を中心に「英国製品ボイコット運動」に広がりました。1773年 アメリカ・ボストン港でその怒りが爆発して英国の紅茶船襲撃、爆破事件になったのです。
「ボストン茶会事件」とは、海と言うティー・ポットに茶葉を入れて(投棄して)Tea Party をボストン港で開いたと言う、アメリカ人のジョークです。(イギリスは産業革命以後、大衆の紅茶消費増から、輸入紅茶激増、イギリス東インド会社の在庫処理に困り、政府、議会は関税、税金操作で逃れようとしたのです。それが植民地の人々の怒りを買ったのです)

・アヘン戦争 First Opium War : 18世紀半ばには、英国の中国茶輸入(イギリス東インド会社を経由した輸入)が増大して、支払い代金の「銀」が不足して財政がピンチとなり、代金代わりとしてインドで栽培したアヘン」を中国(当時は清朝時代)に押し付けたのです。
(当時中国ではアヘンは薬品として使用されていました)しかし英国の中国茶輸入増大と共に、中国のアヘン輸入が紅茶代金を上回り、今度は中国の支払い代金「銀」が不足となったのです。さらに、アヘンによる中国国内の社会、経済の疲弊は激しく、禁輸措置にも拘わらず密輸は横行し政府は1839年英国との全面貿易停止を断行しました。英国は軍事力を背景に強行突破して、香港を割譲させ、多額の賠償金を絞り取ると言う、全く非人道的な政策、商法でした。これを「アヘン戦争」と言います。(要するに英国の重商政策と、覇権主義が生んだ事件ですが、根元にはイギリス人の紅茶への執着が窺える事件です)

・イギリス東インド会社 English East India Co. : 1600年、東方貿易のため英国で英国女王の特許を受け設立された。 中国茶の「独占貿易」を200年以上行う。会社は独自の軍事力まで持つ国策会社であり、英国政府の一機関そのものでした。しかしイギリス自身にるインド・アッサム茶開発・輸入増大と、アメリカへの紅茶輸出激減により独占貿易は1833年に実質終了した。
(東インドとは、西インド=現在のアメリカ大陸=に対して用いた「東洋」を指す言葉です。)オランダ、フランスもオランダ東インド会社、フランス東インド会社もありました。なお、イギリス東インド会社は、当初英国内の毛織物工業製品の輸出を主目的としましたが、島国の英国は、各種製品の独占貿易による莫大な利益に政府の財政が頼らざるえずこのような非人道的な政策がまかり通ったのでしょう。

・ビクトリアン Victorain : 1837年英国ではビクトリア女王が即位した。女王は当時アルコール中毒患者が多く、怠惰な傾向にあった国民大衆を勤勉に、道徳的にも再生させる意味合いで、アルコールより「お茶」を奨励したことから、次のエドワード王朝時代までに一般階級に紅茶の習慣が国民飲料として定着完成していったのです。これを「ビクトリアン・ティー」とも言います。

・ティー・クリッパー Tea Cliooer:1833年イギリス東インド会社による紅茶の独占貿易が終了したことより、紅茶貿易は自由な競争になりました。そこでは一刻も早く産地から紅茶を運ぶことが利益につながるため、各社貿易快速帆船を開発しました。
快速船=Clipper Ship による産地からロンドンまでの紅茶運搬レースを「ティー・レース」と呼びます。スエズ運が1869年に開通し、さらに産業革命による「蒸気船」が主流となり、有名な「カティー・サーク号」が最後のクリッパーとなったのです。
(因みに、当時ティー・クリッパーでも中国ーロンドン間は90日もかかりましたが、蒸気船、スエズ運河開通により、約30日間に短縮されたのです)

・アッサム紅茶の発見・栽培 Assam Variety:1823年イギリスのロバート・ブルース少佐が新種と思われる茶樹をインド・アッサム地方で発見。直ぐには新種と認められなかったが、少佐の弟C.A.ブルースによってアッサム茶の栽培が開始されました。
当時は茶は中国に頼っていましたが、これにより独自の紅茶生産の道が開けたのです。1839年最初のアッサム茶がロンドンのオークション出され成功すると、大挙してイギリス商人がアッサム茶事業にのりだしたのです。中国と違い大きなプランテーションで、可能な限り機械化を進めた結果、品質、値段共に中国茶を追い抜き中国茶を駆逐しまうのです。イギリス植民地で生産されたイギリス帝国の産品と言う意味から「イギリス帝国紅茶=Empire Tea 」と呼ばれました。(セイロン島のコーヒーが、さび病による壊滅(1869年) から紅茶栽培に切り替わるのもこのこのころです )

・ケニヤ紅茶 Kenya Tea: ケニヤは1895年英国の保護領となる。英国は国内の紅茶消費増をまかなう為ここにインド・セイロンに次ぐ第3の紅茶新天地を求めました。1927年に最初の製茶向上が出来ると、外資系のプランテーションが次々と出来てました。
おりから「Tea Bags」需要に乗り、ケニヤの紅茶は発展をとげ、1963年の英国から独立、自治領となってからは、アフリカ人による小茶園も増加しました。2009年は、生産量はおおよそ370,000トンで世界第2位となっています。
生産は殆どがCTC茶です。また茶樹もあたらしいので、渋みが少なく、コクがあるし、短時間で抽出できると言う現代の要請にあった紅茶で、世界をリードし始めています。

今回は以上で終りです。少しはためになったでしょうか?歴史は様々な要素がからんできますので、短く説明するのが難しいのです。

今回の大切な用語は、「水色」、「Brisk」、「Golden Ring = Corona」、「Cream Down」、「Liqour」「ストレーナー」、「Tea Cosy」「Boston Tea Party」です。

用語を覚えれば、紅茶に関する記事などを読むときとても便利ですので、少しずつ覚えるといいですよ。

(ロンドンティールーム オンラインマガジン編集部)

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